ご昭和ください

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昭和の 初めましてPART2

2024年06月16日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 初めましてPART2」で30分。
 
21才頃だったと思います。
友達が親戚の勧めでお見合いをする事になりました。当時、彼女は全く乗り気でなかったので、お見合いについて来て欲しいと頼まれ、他の友達とお見合い場所だったファミレスで少し離れた席から見守る事になりました。
「はじめまして」から、自己紹介などの会話をした後、ドライブに行きましょうと、ファミレスを後にしたので、私達もそこで解散となりました。
その後の話によると、ドライブして食事をして帰ったそうですが、お相手の男性に「友達来てたよね。お土産買って帰ったら。」と言われたそうで、キーホルダーをくれました。今思うと、はじめましての相手が何人も引き連れて来て、とても失礼な事をしてしまいました。本当に申し訳なかったです。
 
高校3年の1年間を理系の男子クラスで過ごした後、大学に入って初めて合コンに参加!!
ワクワク・ドキドキの初めましてのご対面です。
女子の幹事が挨拶をした時(あれ、見たことがある顔だな…)そうです、高校1年で同じクラスだったほとんど話したこともない女子でした。
そのあとのことは、あまり記憶にありません。
特に盛り上がることもなく、お開きになりました。
結局、その合コンが生涯最後の合コンになった還暦おじさんです。
 
友達に誘われてスナックでバイトした時はえらい目に遭いました。
接客が苦手なので無理と言ったら「私が一緒だから大丈夫」と言ってた友達は一日で来なくなり、
一人残された私は辞めるに辞められなくなり、頼りのママもいいかげんな人でいつも遅刻して来るので、店に一人だった時、大勢の外国人が入って来て、何言ってるかわからないし、日本語は通じないし、一人でどうやって接客したのか思い出せないくらいパニックになりました。
カラオケも当時映像が出なかったので、順番バラバラの紙の歌詞カードを探すのが大変でした。
 
私の初めてのアルバイトは、ギリギリ昭和の62年、大学1年生の夏休みでした。
旧山陽町にあるゴルフ場のグリーン改造工事で、私はグリーンサイドのバンカー担当でした。
初めてのバイト、とにかく挨拶だ!と、「よろしくお願いします!」と挨拶しまくったのですが、その中に、かなりのおじいちゃんがいました。
優しそうなおじいちゃんでしたが、その方がバンカー作りの名人という方でした。
『そこは、もっと深く掘れ!』
とか
『そこは、もっと砂を厚く入れろ!』と、的確な指示。
1か月後、『出しにくい、いいバンカーができた』と去っていきました。
この話を地元の友達に話したら、
『あの魔のバンカーは、お前が作ったのか!』
と驚かれました。あれから37年、出にくい魔のバンカーは健在のようです。
 
初めてのバイトは高校2年生の冬でした。父の知り合いから頼まれた正月電報の配達です。
正月電報ってご存知ですか。漁港ならではのもののようで、遠洋漁業で年末年始に外洋で働いている船員さんから、家族やお世話になっている方々への年始の挨拶電報です。
年末に電報配達の人と一緒に回り、配達先を教えてもらい、1月1日に「おめでとうございます。お正月電報です」と挨拶をして配達します。
年賀状ほど配達量も多くなく、お正月と言うことでバイト代も良かったと記憶しています。
 
入社して、配属された部所に挨拶をしに初めて行きました。
すでに、自分が来ると言う情報が行っていたのでしょう、十数人の先輩が椅子に腰掛けて待ってました、自分が「初めまして、この度この職場に配属される事になりました、頑張れ福浦です」と言ったら、一番前に座っていた恐ろしげなおっさんが、「声がこまい!やり直し!」と言って来ました。
なんと、恐ろしい所に来たと、その時は思いましたが、そのやり直しを言われた、おっさんが、その後とてもよく面倒を見てくれて仲良くしてくれました?
 
さて、次週、6/23のテーマは「昭和のやきそば」で行きましょう。ご昭和ください、12年の歴史で初めてのテーマ。夏祭りの屋台、キャベツの芯が多め、ペヤングの湯切りetc焼きそばにまつわる“昭和の”思い出・エピソードお待ちしています。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=-kKUOLJEXWI&t=216s
今週は「昭和の隣の県②」
山根さん「レンタサイクルのレンタって何か?レンタルを覚える前に“レンタ”を覚えた」

昭和の 初めまして

2024年06月09日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 初めまして」で30分。
 
その昔、知り合いのご夫婦の奥さんの妹を新南陽から徳山駅の新幹線口まで、たまたま送ることになりました。初対面です。途中車の中で「初めまして」「お姉ちゃん夫婦をよろしくお願いします。」と言われました。その子が今の奥さんです。
 
高校に入って部活に入部する際、初めましてのあいさつと共に一発芸を披露するのが習わしでした。突然、芸をやれと言ってもなかなかいいのが思い浮かびませんが、グラウンドに行く途中でホームサイズ(500ml)のコーラを引っこ抜くタイプの自販機があったので、1本買って持っていき、先輩の前でコーラの一気飲みをしました。一気飲みをしたことがない私は、半分ぐらい飲んだところで噴き出してしまいました。そのリアクションがよかったらしく大盛り上がりだったのを覚えています。
 
「昭和の初めまして」で思い出したのは名刺です。
就職した会社で配属された後に、名刺を1箱(100枚)貰いました。営業職ではなかったので、そもそも「初めてまして」と名刺を出す機会が殆んど無い部署だったのですが、嬉しくて、同級生や同期、親兄弟に配ってしまい、あっという間に100枚が無くなりました。「名刺が無くなったので、追加作成をお願いします!」と上司へ中々言い出せず、半年以上黙っていましたが、結局バレて、「仕事以外で使うな!」とメチャメチャ怒られました。
 
私の父はガサツで大酒飲みの人でした。昭和34年、そんな父に母とのお見合い話が。父の同僚達は「ええか?喫茶店でいきなりビール頼むんじゃないぞ!最初はミルクセーキを頼め!」とアドバイス。甘いもの嫌いな父でしたが、ミルクセーキを頼んだそうです。
 
小学5年のときに転校したのですが、転校先の小学校はマンモス校で、児童の数が前の学校の何倍も多くて、似たような顔の子ばかりいたのです。
昼休みには、大勢で鬼ごっこをして遊ぶのですが、一緒に遊んでいるメンバーの顔が把握できていないので、鬼になっても誰にタッチしていいかわからず、必死で走り回っていた記憶があります。
未だに人の顔を覚えるのが苦手で、初対面の人と会うと特徴を探そうと目を凝らしています。
 
私の父は「転勤族」でして、萩で生まれ、長門、小倉、下関と転校しました。
だから、初めましては体験しましたよ。
母と一緒に、校長室で話をしたりして、教室に向かいます。そして、よくドラマとかである黒板に名前を書いて挨拶します。転校生は、好奇の目でみられ、しばらくは隣のクラスから見にこられたりもします。
そして、初めは教科書がちがったりするので、隣の子にみせてもらったり、、、
私はこの経験から初めての人、場所にもすぐ溶け込めるようになりました。
 
4才~5才の頃、東京の従姉妹の家のトイレが「洋式トイレ」に変わっていて驚きました。和式トイレの様に前向きに座った私を見て「蓋を開けて、椅子に座る様にして使うのよ」と、叔母が笑いながら教えてくれました。
宇部駅に迎えにきていた父に「東京のトイレは、座って使うんよ」と、興奮気味に言ったこと、今も鮮明に憶えています。
父は、さぞ、恥ずかしかっただろうと思います。
 
さて、次週、6/16のテーマも「昭和の初めまして」で行きましょう。新しい世界に踏み入れた、引っ越しをした、中学・高校・就職、部活、習い事、アルバイト。高橋少年は昭和も終わりのS63年、大手スーパーで初アルバイト。子供服売り場で「初めまして」を連発してました。
 
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https://www.youtube.com/watch?v=dCTTFlcNBv0
今週は「昭和の隣の県」遠足、進学、デートetc話が広がってます~。

昭和の いつの間にかできるようになっていたこと

2024年06月02日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和のいつの間にかできるようになっていたこと」で30分。
 
昭和のいつの間にか出来るようになっていたことで思い出したのは「歌謡曲」です。
カラオケボックスが無かった時代、カラオケはスナックで歌うものでした。見ず知らずの人達の歌を聞きながら、自分たちの順番待ちをしたものです。普段は殆ど聴かない演歌や歌謡曲でも、何回も何回も聴かされているうちに、自然と歌えるようになった曲が幾つも有りました。
「酔っぱっらっちゃった」、「六本木ララバイ」「雪列車」等は今でも私の十八番です!
 
さて、次回6/2は「昭和のいつの間にかできるようになっていたこと」で行きましょう。
九九、スポーツシューズの蝶々結び、水たまりを超えるジャンプetc“いつの間にか”とか“ある日突然”できるようになっていた事ってありますよね。お待ちしております!
 
小学1年生の時、水泳の時間、25m泳げませんでした。夏休みはプールが2時間位開放されていてよく近所のグループで行っていました。もちろん泳ぎの練習はせず遊んでいました。ですが夏休み明けの水泳大会で25m初めて泳げました。遊びながら鍛えられたのかもしれません。
昭和らしいのは、かまぼこ板に、住所氏名を書き、その板を当番の保護者に渡してプールに入ります。帰る時にその板を返してもらいます。
わざわざかまぼこ板を買った年もありました。
 
見よう見まねで、できるようになっていたのは「缶切り」です。
10歳の時、親が留守の時に“桃の缶詰を勝手に食べよう”と缶切りを初使用。
小一時間かかった記憶があります。桃缶、今でも好きです。白桃より黄桃ですね、やっぱり。今の学生のアルバイトさんは、ほぼ100%、缶切りが使えません。そこから教えないといけません。栓抜きも使えない子が多いようです。
 
「フーセンガムで風船を作れるようになっていた」事です。
幼稚園の頃から、味の濃い、甘いフーセンガムが大好きでよく食べていましたが、小さい頃はフーセンがつくれませんでした。
父親や、親戚の叔父さん、お兄ちゃんにガムをあげ「風船をふくらまして!」と懇願していました。
皆が作ってくれる、大きなフーセンや、3連、4連のフーセンに羨望の眼差しを向けていたものです。
作り方を教えてもらっても、中々上手くいかない時期が長く続いていましたが、気が付いたらできるようになってました。それがいつ、何歳の頃かはハッキリ覚えていませんが、初めてフーセンが出来た時の「嬉しい気持ち」だけは心に残っています。
 
さて、次週、6/9のテーマは「昭和の初めまして」で行きましょう。そろそろ、新人さんが現場にデビューする頃、中学・高校・就職、部活、習い事、アルバイト。昭和のころの「初めまして」の思い出・エピソードお待ちしております!
 
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「このタイヤは喰いつきがええ~というヤツがいるが喰いつかんタイヤを見たことが無い」という山根さんの顔をご覧ください!

昭和の 親切2

2024年05月26日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の親切 PART2」で30分。
 
自転車を乗り始めた頃、近所に自転車のパンクを直してくれるおじさんがいました。おじさんのところに自転車を持っていくと「またパンクしたんか」チューブを水につけ空気が漏れている所でぶくぶく泡が出ます、そこを軽石でこすり、ゴムのりを塗り、丸く切ったチューブを貼り、木槌で叩きなおしくれました。何回も持っていくので、いろんな形のチューブの切れ端が貼ってありました。
 
昭和52年までは「学校の1クラス分の数の同級生がいる社宅」に住んでいて、そこには共同風呂がありました。
当時としては珍しかった双子の赤ちゃんがいるお母さんがゆっくりお風呂に入れるようにと、赤ちゃんたちを、次々にお母さんが洗うと、その赤ちゃんたちを湯船に入れて上げる親切なおばさん達が必ずいました。そして脱衣所で赤ちゃんを受け取り、タオルで拭いて服を着せて上げるおばさん達がいて、何人かのおばさんたちの親切が当たり前のようになっていました。私も母と一緒に服を着せて上げたり哺乳瓶の湯冷ましを飲ませたりしていました。
 
台風で3日くらい停電したことがあって、電気炊飯器の我が家はご飯が炊けませんでした。
それを見ていた隣のおばあちゃん、
「これを食べなさい」と、ガス炊飯器で炊いたご飯を釜ごと持ってきてくれました。
炊きたてのご飯は美味しかったです。
 
昭和37年生まれの夫が大学生の時、後楽園球場でチケットのもぎりのアルバイトをしていました。
試合前には打撃練習があり、ファウルボールが観客席に飛ぶと注意喚起するのも仕事の1つでした。その日の夫の担当は1塁内野席で、観客もまばらだったのですが、たまたまファウルボールが飛んで来て、落下地点付近に女の子がいるのに気付き、夫は一目散に走って右手で捕球!座席の背もたれで右太腿を強打してしまいました。夫のとっさの親切で女の子は無事。でも、痛い!
その時、グランドから「ナイス!」と声がして振り向くと、何と当時の王助監督ではありませんか。
夫は痛みを忘れて立ち上がり、バイトの帽子を脱いで、最敬礼したそうです。王助監督は笑顔で右手を上げられ、ライト方向へ歩いて行かれました。
その後、1週間は捕球した右手と強打した右太腿の腫れがひかなかったそうです。
 
小学生の時に急に「小さな親切運動」というのが始まりました。クラスで「小さな親切」をした人を発表する時間がありました。みんなの前で褒めてもらおうとして、今思えば取ってつけたような行動をしたり、人の目を気にしていた時がありました。 
 
親父は出張が多く会社のライトバンで日本各地に出向いました。
ある晩、遅めの時間、某県内をライトバンで走っていると“ネグリジェの女性”がヒッチハイクをしていたらしいのです。
親父が声をかけると「旦那と大喧嘩をして家を出てきた」との事。お願いだから自分が言う所まで乗せて行って欲しいと。
そりゃあ大変だと親父は乗せたみたいですが…その話を家の居間で得意気にしていたのを聞いた母親がムッとして「何それ!?そんな人を乗せることないわよッ!」と、しばらく抗議するようにグチグチと怒っていたのを未だに覚えています。
子供だった私も〈夜遅く〉〈ネグリジェ姿の人妻のヒッチハイク〉というワードに何かモヤモヤしたモノを感じたのですが、子供だったのでそのモヤモヤの正体はよく分からなかったんだなぁ。
ま、わざわざ家で言うぐらいだから、やましい事はない、純粋に親切だったのでしょうね。
 
さて、次回6/2は「昭和のいつの間にかできるようになっていたこと」で行きましょう。
九九、スポーツシューズの蝶々結び、水たまりを超えるジャンプetc“いつの間にか”とか“ある日突然”できるようになっていた事ってありますよね。お待ちしております!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=Zax9O08TEdI
「昭和の見た目」
エフエム秋田で我らがご昭和くださいが紹介されるなんて…という展開も!!

昭和の 親切

2024年05月20日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 親切」で30分。
 
当時のお隣さんにして頂いていた、「電話の取り次ぎ」です。
我が家に電話が来たのは周囲よりだいぶ遅く、私が小学一年生の時の昭和51年でした。
それまでは、幼稚園や学校からの電話連絡など緊急を要する時は、お隣さんの電話にかかってくるようにして、わざわざ取り次いで貰っていました。
当時、二軒長屋の借家に住んでいて、お隣さんとは家族ぐるみのお付き合いをしていました。隣のお兄ちゃんには良く遊んで貰っていて、おじさんもおばさんも凄く親切。そんな良い関係だったので、電話を取り次いで貰えていたんだと思います。
私が小学に上がった時、姉はすでに中学生。学校からの連絡も増え、さすがにそろそろ電話を引こうとなったらしく、ようやく我が家に電話が来ました。当時は電話の加入権がまだ高価だったので、親も苦労したんでしょうね。
 
小学校の給食のコッペパンを、その日、用事等で休んだ児童の家まで、近くの家の同級生が持って行っていました。人数も今より多かったので出きたのかも分かりませんが、貧しい良き時代の小さな親切ではないでしょうかね!
 
私が幼い頃、おばあちゃんとお出掛けするため、バス停近くのお店でアイスを買っていたら、いつも10分ぐらい遅れるバスが定刻通りに到着したので、慌ててアイスの会計を済ませて急いでバス停に行きましたが、既にバスは出発していました。
おばあちゃんが急いで手を振りながら追いかけたら親切な運転手がバスを停めてくれて乗ることが出来ました。
 
昭和37年、我が家にはまだテレビがありませんでした。
私と姉はお隣の家に夕方の子ども番組を見せてもらいに行ってましたが、ちょうどごはん時なので、お隣の家のかたが親切に私達にも晩ごはんを出してくれたことがあって、次の日から私と姉は母の作ったお弁当を持ってお隣にテレビを見に行くようになりました。
今思えば弁当持参でテレビを見に行くのもなかなか図々しかったような…
 
昭和50年代頃、私が住んでいた大阪でも南の地域には親切というかおせっかいなおばちゃんが大勢おられました。
「いてるぅ~?」と声がした時には、もう家にあがって側まで来ていてビックリしたものです。
最初は少々戸惑いもありましたが、しばらくするとすっかり慣れて、そんな大阪のおばちゃんには育児などで随分助けられたなぁと思います。
ここ山口には、特に最近ではそんなおばちゃんは少なくなったのではないかと思います。
いい意味で、おせっかいな人生の先輩になれると良いなぁと思っています。
 
昭和の優しさと言えば、相手の受け身の技術の能力によって、バックドロップの投げる角度を変えていたというジャンボ鶴田さんでしょう!
あと、せっかくサーベルを口にくわえて来たのに、刺したりしないで、柄(つか)で殴るタイガー・ジェット・シンさん!これぞ、究極の優しさかと!
 
さて、次回5/26も「昭和の親切」で行きましょう。
山根さん曰く、もっとスケールのでかい親切話がないものかぁとリクエストしてますが、ちょっとしたものでも構いません、昭和の頃の親切話、お待ちしております!
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
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「昭和の故障②」
かくれんぼしてると忘れさられる…。
子どもは小さな穴を見つけると大きくしたくなる…。

昭和の 隣の県PART2

2024年05月12日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 隣の県 PART2」で30分。
 
昭和の隣の県。
最初に行ったのは、島根県の津和野です。祖母の家が山口駅に近くにあり、よくSLを見てました。ある年の夏、大阪の従兄弟達と津和野に行く事になって、SLに乗り、車窓から流れる黒煙、忘れた頃に鳴る汽笛に興奮していたのを覚えています。
写真は、仁保駅だと思います。
なぜだか自分はライオンズ、弟は近鉄の野球帽です。
 
隣の県といいますか、青森県の私にとっては、隣の道(どう)、すなわち北海道の話になります。
私が小2だった昭和62年の春、父がいきなり「函館へ行くぞ!」と言い出したのです。
理由は、次の年に廃止が決まった青函連絡船に乗るためでした。
父と私は弘前駅を始発で出発し、青森駅から連絡船へ。船内はまるで祭りのような雰囲気で、野生のカモメやイルカが現れると歓声が上がり、竜飛岬が見えてくると、誰からともなく津軽海峡冬景色の大合唱。
そこから函館をひと通り観光し、夜の便で青森に戻って深夜に帰宅するという弾丸旅行でしたが、最初で最後の青函連絡船、そして初めて見る県外は、何もかもが目新しい物ばかりでした。
 
昭和の終わりに3年間広島に住んでいました。先週の放送のナタリー遊園地で思い出したのは、冬は屋外スケートリンクがあったのです。当時はまだ温暖化とは無縁で、遊びに行った日は雪が降っていてリンクに雪は積もっているし風も冷たくて幼稚園児の娘が寒さに泣き出したので早めに引き上げて帰りました。
 
「昭和の隣の県」で思い出すのが、愛媛県の大野ヶ原です。
中学生の頃、家族全員で行った最初で最後の旅行でした。朝早く出発し、柳井から松山へ、初めて車でフェーリーに乗りました。大野ヶ原で1泊、松山で1泊の2泊3日の旅でした。大野ヶ原の明け方に見た雲海と日の出は忘れられません。
既に、両親は他界しているので、この旅が最後だったんだなーと思い浮かべました。
 
お隣の県ですが、小学6年生の時の修学旅行が広島でした。バスで広島県に入ると、ランボルギーニカウンタックが走っていて、男子は「すげー!かっこいい!」と大興奮でした。当時お隣の県では、山口県では見かけないスポーツカーや外車が走っていて、都会だなとつくづく思いました。田舎の県あるあるでしょうか。
 
田布施町に住んでいた昭和56年前後の話です。
測量士補資格取得の為、受験地の広島へ。(この年は不合格。翌年合格)。
試験後に友達と、『ひょっとしたら“サテライトNO.1”の生録が見れるかも?』ってことで大慌てで第一産業に向かいました。
着いたところものすごい人だかり。。。
デビュー時の“中森明菜”さんがキャンペーンで来店していたのでした。結局、もみくちゃになりながら、後ろ姿しか見れずに、『山口には、アイドルこんよのぉ~!!』と帰りの電車で愚痴ったものでした。
 
さて、次回5/19は「昭和の親切」で行きましょう。
近所にいた親切なおばちゃん、坂道のリヤカーを押してくれる少年、デパートの入口のドアを開けて譲ったらしばらく次々にお客さんが入りつづけたetc昭和の頃の親切話、お待ちしております!

昭和の 隣の県

2024年05月05日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の 隣の県」で30分。
 
「昭和の隣の県」といえば、やっぱり広島です。
小学、中学時代の夏休みや春休みに、家族でちょっと遠出をするとなると、我家の場合、広島でした。中でも、遊園地のナタリーには何度も連れていってもらいました。
ジェットコースターには私たち姉妹は怖がって乗らず父が一人で乗りました。今、思うと、子供たち以上に父も母も祖父も楽しんでいたような気がします。あの頃、遊園地に遊びに行くにも、父も母もきちんとした格好をしていたことに驚きます。
 
今でこそ ネットが充実してて情報が 田舎でもたくさん入手できるようになったけど、
当時のメディアはテレビとラジオ しかありませんでしたよね 。隣の県、広島、福岡はテレビ局が充実してて、なおかつバラエティ番組やアニメがリアルタイムで放映されてました。それにひきかえ山口県はテレビ局が2局しかなく、しかも 1クールぐらい遅れて放送されてたのはちょっと悲しかったです。
 
小学校低学年の昭和42年頃、父が小倉に出張に行くのについて行きました。
JRで防府駅から小倉まで行き帰りに小倉の百貨店に寄ると、キャプテン・ウルトラの中田博久さんのサイン会が開催されており、私もサイン色紙をもらい、嬉しかった思い出があります。そして、もともと我が家は漫画本を買うのは禁止でしたが帰りの電車に乗る前に父が漫画本を買ってくれました。父はビールを買ったので母への口封じだったのかも知れません。その漫画本は「おそ松くん」でした。
 
山形県に住んでいた頃、両親は果樹園を営んでいて、そこで採れた果物をトラックの荷台に積んでお隣の県の宮城県仙台市の市場に持っていくことがしばしばあり、たまに連れて行ってもらいました。
深夜にトラックから見える景色が大好きで毎回ウキウキしていたのと帰りに食べた自販機の天ぷらそばが美味しかったのを思い出します。
 
山陽小野田市在住ですので近いのは福岡県なのですが、母方の祖父の実家があり親戚もいたので、我が家はよく広島に行ってました。
本通り商店街に、家電の「ダイイチ」(現・エディオン)、そして、広島そごう。都会でしたねえ。
広島に行くと、いつも食べていた、小さなツボにルーが入って運ばれてくる「壺焼きカレー」が毎回楽しみでした。
 
さて、次回5/12も「昭和の隣の県」で行きましょう。高橋少年は子どもの頃の大型連休は、いつも、東京の隣の県、千葉県の海に潮干狩りに行っていました。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=CiPhjUTp0ac
「昭和の故障①」
連休中にぜひ!アーカイブもたくさんございます~。

昭和の 見た目PART2

2024年04月28日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の見た目 PART2」で30分。
 
小5の時、同級生で「アリスちゃん」というあだ名の女の子がいました。
“不思議の国のアリス”は全く関係がなく、見た目が谷村新司さんにそっくりだったからです。女の子なのに(笑)。
あだ名は、時に残酷な事がありますが、本人はアリスファンで喜んでおりました。
 
小学生の頃のテレビのアメリカ番組はとてもキラキラしていて、向こうの豊かな生活を初めて目にしたものです。中でも印象深いのは「名犬ラッシー」。私の家も近所も、飼っている犬はみんなどこかでもらってきた犬。が、通学途中に通る大きなお屋敷の門の中に居たのが、ラッシーと同じコリー犬の色違いの2匹。毎朝、幼いながら犬の種類で、我が家とは違うんだと感じていました。
 
昭和58年頃、仕事が終わってOL用の制服から私服に着替えました。その日の私の私服は、ベージュのTシャツの上にサマーニットの網のような透かし編みのベストを着てたんですが、上司に挨拶して帰ろうとしたら、座っていた上司がすごい勢いで私に近づいて来て、
「あーびっくりした。裸にスケスケのベストを着てるのかと思った」と言われました。
網のようなベストの下のベージュのTシャツが裸に見えたみたいですが、
「裸で歩くわけないだろ」と思いながら会社を後にした不適切にもほどがある時代の出来事でした。
 
小学生の頃、近所にいるおば様で、朝は頭にカーラーを巻いて、服装はハイジの様なフワーっとした ものをよく着ていらして、年齢は解らずきっと私の親より上というのは間違いなかったと思いますが、
私が大人になってからも変わらない風貌でした。洋裁をやってらした方で何度かお願いする事があり、そこで初めてお話しをして“マアなんて優しくて 人を幸せな気分にさせるオーラのある人なんだ と…”大好きになりました。
見た目で勝手に思い込み…人を見る目がないことに気付かされました。できれば、もう1度お会いしたかったです。
 
小学四年の事。通っていた小学校は木造校舎。
階段の下が掃除道具入れになっていまして、その木目がドクロにそっくりで怖かったです。
私だけに見えているのかもしれないと思い、友だちには言えませんでした。
 
昭和54年から56年、大学でラグビーをしていました。当時は、芝生のグラントはほとんどなく、試合直後は泥にまみれて傷だらけでした。
身長181cm、体重82 kgぐらいで、FWにしては細い方ですがチームの中では大きかったので、同期の仲間からは「牛」と呼ばれていました。
卒業式の記念に羽織袴を着て写真館で写真を撮りましたが、スポーツ刈りから伸ばした髪を見て、「入門したてで髷が結えない相撲取り」と言われました。
 
さて、次回5/5のテーマは「昭和の隣の県」で行きましょう。大物アーティストのコンサートは広島や福岡。ボーナスが出たら広島に出る。フェリーに乗って松山へ。高橋少年の実家は北に200mも行けば埼玉県所沢市です。
 
そして、ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新しています!
https://www.youtube.com/watch?v=KdL4tA1janA
「昭和の大きすぎる PART2」
山根語録→昭和の頃は靴を買う時に「ちょっと大きめのものを買うちょけ」って言われてた。

昭和の 見た目

2024年04月21日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の見た目」で30分。
 
クリスマスブーツのお菓子セット。
見た目は最高でしたが、上底の上に、いかにも売れ残りスナック菓子を詰めて、ほぼいっぱいの状態に有名メーカーのチョコ、ガムとかをのせてネットをかぶせて包んでありました。それでも、サンタからプレゼントもらったみたいに嬉しかった。
 
昭和50年頃、母方の祖父が「私の父に似てないか?」と、週刊誌に載っている小林亜星さんの写真を見せてくれました。父の方が少し痩せていたけど、 黒縁メガネで大柄でデップリしたお腹に「似てる~!」と家族で大笑いしました。
 
母親に出来上がったばかりの高校の卒業アルバムを見せたら「なんで先生が学生服を着ちょるんかね?」と聞くんで、見ると、それは同級生のガミくんでした。逆に、担任の先生は、大学を卒業したばかりの童顔だったので余計老け顔のガミくんが先生に見えたようでした。
 
昭和のプロ野球の映像、特にON全盛期の頃
観客席が写るとほとんどが男性、しかも背広にネクタというイメージがあります。
まるで後楽園球場の内野席にはドレスコードがあったんじゃないかと思わせるほどです。
みんな一張羅を着て気合いを入れて野球観戦してたんでしょうかね。
 
小学6年生の時にハイソックスなるものが登場しました。とてもオシャレに見えて親にねだりましたが却下。制服の無い学校だったので、どうしてもハイソックスを履きたい私は発明しました。靴下を濡らして引っ張り上げたらハイソックスになったのです。友達から「買ってもらったん?」と聞かれて「うん!」とウソを付いていました。でも、このニセモノのハイソックスは常に濡れていなければいけないのです。時間がたって乾くと、魔法が取れて只の靴下になってしまいます。授業中、次第に乾いてゆくのが気が気じゃありませんでした。  
 
21歳の時、初めて買ったのが、中古のホンダN360です。空冷の360cc、レッドゾーンは確か6000回転、単車のエンジンです。
当時、エアコンなど無く、三角窓から、車内に空気を入れて、涼をとっていました。
そんな時見つけたのが「冷房車」の青い文字のシール。これを窓ガラスに貼り、真夏の暑い日、わざわざ窓を閉め、見た目冷房が効いている振りで走ってました。車中は灼熱地獄でした。
 
中学校はお弁当持参でした。我が家はそれほど貧しいという程の家でも無かったのですが、父の方針でご飯は白米と麦を混ぜたご飯でした。世の中もこの頃には白米の時代。お弁当のご飯に麦が入ってるのが恥ずかしくて弁当箱の蓋を立てて食べていました。でも、ある日気が付きました。ご飯が炊けた時、麦は軽いからか炊きあがりの上層に集まる。それ以来、自分でお弁当箱にご飯を詰めることにしたのです。麦を避けて下に沈んでいる白米だけをすくって白米弁当にしたのです。今は健康志向で麦も堂々と食べられてて、あの時の私の苦労が可哀想に思えてます。
 
さて、次回4/28も「昭和の見た目」で行きましょう。老け顔ネタ、ドーベルマンがいるお家は裕福に見える、見た目で勝負するために車をカスタムするetc次週も昭和の見た目のネタお待ちしています!
 
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「昭和の大きすぎる」
トレンディドラマのW浅野が使っていた携帯電話ってデカかったなぁ。

昭和の 故障PART2

2024年04月14日

昭和46年生まれ52才、高橋裕です。
 
今日は「昭和の故障 PART2」で30分。
 
子どもの頃、ファミコンのコンセントのケーブルをぐるぐる巻きにして保管していたのですが、そうすることによってアダプタの接触がすぐに悪くなってしまい…。うちではジャンプを重しにして凌いでいたのですが、ちょっとした衝撃で電源が落ちてしまうため、テレビの前を通る妹に「動かんといて!」とよく喧嘩をしていました
 
傘を直してたお店屋さんは神田町ですね。傘の骨が折れたり、持ち手が壊れたりした時によく直してもらってましたね。山根さん、懐かしい話をありがとうございました。そうですよね、昔はそんなに買って貰えなかったですよね。
 
私が10歳頃まで住んでいた家のお風呂は樽を大きくした様の物でした。底も周りも全て木を組み合わせて出来ているからか、度々水漏れをしてました。その度に父は木の皮を軟らかくした繊維状の物を木槌を使って隙間に詰めていました。
 
超能力ブームのころ、ユリ・ゲラーが出演した生番組がありました。
その番組中で、もし動かなくなった時計があったら
テレビの前に持ってきて下さい。念を送りますと言われたので、故障していた置き時計をブラウン管の前に置いてテレビを見ていましたが
やっぱり動き出しませんでした。
 
実家のラーメン店の中にあったビールやジュースを入れていた透明な冷蔵庫が真夏に故障しました。交換する事になり、新しい冷蔵庫が届くまでの間、別の離れた冷蔵庫まで、飲み物も取りに行かなければならず、夏休みで手伝いをしていましたが、大変でした。
 
ある年の真冬に誰もいないのにインターホンが鳴ることがありました。
接触の問題かと思い、玄関の子機を叩いてみたところ蟻がちらほらと出てきたため、蓋を開けてみると子機の内部が蟻の巣になってました。
機器内が温かいため巣を作ったようで、蟻が接点に触れてインターホンが鳴ってしまったようです。
 
18歳の時にバイクで走っているとマフラーが落ちてしまったことがあり…。熱々のマフラーを拾った後に近くの金物屋さんで紐を買い、マフラーを紐でくくりつけて背中に背負って、爆音の中帰ったことがあります。たまたま暴走族が通りかかったのですが、私のバイクの方が圧倒的に音がうるさく、逃げるように帰りました。
 
さて、次回4/21のテーマは「昭和の見た目故」で行きましょう。子供の頃から太っちょだった僕はかなり気にしてました、見た目。弁当の見た目も気になる、見た目300g入っているはずなのに意外に少ないと思ったら上げ底してたetc 昭和時代の“見た目”話をお待ちしておりますよ~。
 
ご昭和くださいのYouTube動画、毎週水曜日更新です!
https://www.youtube.com/watch?v=86TGzNduVOk
「昭和のお腹が痛い②」
我が故郷、西武園ゆうえんちが今熱い!というお話も。
 
そして、今回はもうひとつご紹介したいメールが。
テーマとは無関係なのですが、ちょっと気になった事が…。
エフエム秋田で
「柳葉敏郎の昭和をご唱和願います」
という番組が始まっているようです。
タイトルが似てますよね~と思ってしまいました(笑)
私ども「大人のラジオバラエティ ご昭和ください」は、“昭和”と“ご唱和”をかけてのネーミングで2012年4月にスタートしました。
なんか、親近感ありますね~。


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